誰がために寿司は廻る

一人暮らしの社会人が好きなことを書きます

料理をすること

最近、料理をするようになった。

ずっと母親が働いているというのもあって、昔から他の同世代の子供達よりは台所に立っている時間は長かった。しかし自分で料理を作るというよりは皿洗いをしたり母親の手伝いをしたりということが多くて、台所に立っていた時間の割には料理ができない。
そんな私が料理をするようになったのは、恋人の家でご飯を作ったりお昼にお弁当を作って渡したりするようになったからだ。食べてくれる人がいるからなのか料理はけっこう楽しく、時にはなかなか美味しいものが出来たりして、私には料理のセンスがあるのかもしれないと調子に乗ったりする。
しかし、料理のセンスという言葉には疑問の余地があるというか、違和感を覚える。創作料理の類や料理の見栄えに関する美的センスならともかく、レシピを見て作れる料理にセンスの有無ははたしてあるのだろうか。ある程度の正確さと慎重さをもって、書かれた材料を用意して、きちんと順番通りに切ったり混ぜたりこねたり焼いたりすれば、あとは慣れで、だいたいの料理は美味しく出来るということだ。そもそも料理というのはよっぽど味覚が壊滅的だったり妙なアレンジを加えようとしたりしなければ、レシピ通りに作った料理が不味くなるはずはないのである。こんなことを言うのは味気ないと思われるだろうが、料理とはレシピの手順を踏んで正確に行えば成功してしかるべき、いわば化学実験だと言ってしまっても間違いではない。美味しい料理に求められるのはまず正確さだと思う。

しかしこの文章を片手間にだらだらと書いているうちに、料理はレシピ通りに作ることが全てではないのではないかと思い始めた。日々の食卓に並ぶのはお料理番組や調理実習とは違って、一品料理ではなく一汁二菜、栄養バランスや食べ合わせに気を遣っていろいろな料理を組み合わせて作るものだ。しかも一人で複数の料理を作るときはたくさんの作業を同時にこなさなくてはならないし、なるべく全ての料理の完成する時間は合わせた方が良い。食材も、多くの場合は財布と相談して自力で選んで調達しなくてはならない。食材が欠けているときにはメニューを変化させたり別の食材で代用することも必要になる。しかも、たまに気まぐれで作るならまだしも毎日毎日ご飯を作るならメニューにも変化をつけなくてはいけない。そう考えると、料理をするということはかなり大変なことなのではないか。
食材を用意したり献立を考えたりするところから料理が始まっているとして、実生活に即した応用力や判断能力、時間を意識して作業を正確にこなす処理能力、そういった能力を料理のセンスと言うのかもしれないと思った。