誰がために寿司は廻る

一人暮らしの社会人が好きなことを書きます

やさしいということ

 やさしい人になりたい。

 そう思うのはきまって、誰かと関わって不快な思いをしたときだ。他人と向き合っていて不快な思いをする場合にまず問題になるのは、その不快感は相手のせいなのか私のせいなのかということ、つまり相手の言動が客観的に見て悪いのか単に私の心が狭いだけなのかということ。

 相手の細かい言葉遣いが気になったり、小さな言動にイラッとしたり、そういう機会は日常少なくない。その中にはきっと誰が見ても相手が悪いような場合もあるんだけど、もしやさしい人だったらこんなことで腹を立てたりしないに違いない、じゃあ私はやさしくないのだろう、いやいや、やさしいのと心が広いのは別だろう、とかいろいろ考えて、というかそもそもやさしいって何なんだ、となってしまう。

 そして私は、その相手に感じたいらだちや不快感を処理するのが下手である。相手に大した落ち度がなくて単に私の心が狭いのだけが原因ならそれは我慢しなければいけない、けれどこのまま嫌なところを我慢しているうちに私は相手のことを嫌いになってしまうかもしれないし、だから相手はハッキリ言って欲しいかもしれない。相手が悪いにしても、それを相手に伝えるのがいいのかどうかわからないし、適切な伝え方もわからないし、もし相手にそれを伝えて相手との関係が破綻したら嫌だし、どうするのがいいのかわからなくなってしまう。「あなたの嫌いなところ言ってもいい?」なんて前置きをしたいけど、その質問が既にお前に嫌いなところがあるぞと告げてしまっているからお互いの関係が変わってしまう可能性があることに変わりはない。無意味である。最終的にはいつも、相手との関係を変えるリスクを犯してまで伝えるか、関係を維持するために飲み込むかという2択になる。相手に伝えることもやさしさかもしれないし、胸の中に留めておくこともやさしさかもしれないし、あるいはどちらもやさしさではないかもしれない。自分の不快に思うところを直して欲しいというエゴと、隠しごとをしてまで関係を繋ぎ止めておきたいというエゴの対立ともとれる。第一、不満不平を抱く時点でやさしい人間ではないと言われてしまえばそれまでだ。

 それから私は、嫌われたくないあるいは良く思われたい相手にはとても気を遣って接して、自分の汚いところも見せないようにするし、嫌なことがあっても相手には伝えないように我慢するけど、嫌われてもかまわないような相手には思ったことを遠慮なく言ってしまうということに、最近になって気付いた。自分本位というか、わかりやすいといえばわかりやすいが、なんともエゴまみれの汚い人間だと気付かされた。でもこれは、嫌われたくない相手にはやさしい嘘とも言うべき嘘をつき、嫌われてもかまわない相手には嘘をつかずに接するということだ。後者の方をやさしさと思う人もいるだろう、しかし、後者の相手については私はどうでもいいと思っているということになる。どうでもいいなんて、やさしさの対局に位置する感情ではないか。こうなると完全にやさしさの意味を見失ってしまって、こうしてやさしいという抽象的すぎる概念についてうだうだと考えていること自体、そりゃあ自分でも馬鹿らしいと思うけど、どうしても考えずにはいられないのだ。

 そもそもなぜやさしい人になりたいのかと考えれば、私は人から良く思われたいだけなのだと気付く。やさしい人になれば周りにやさしい人が集まってきてやさしくしてもらえると思っている、いやしい人間だからである。そんな不純極まりない動機でやさしい人間を目指すという試み、なかなかちぐはぐで面白いかもしれないなと思った。