誰がために寿司は廻る

一人暮らしの社会人が好きなことを書きます

自意識の取り扱い方

 先週の日曜から月曜にかけて、ゼミの同期のみんなで卒業旅行に行った。行き先は箱根で、ここに来るのはこれで3、4回目になるが、お金がなく海外なんかがそれほど好きではない私にとってはとてもありがたかった。箱根は何度行っても楽しいものである。

 私はたまたまその前日から家族旅行で箱根に来ていた。家族旅行というか、私の卒業を祝うという趣旨で祖母が提案した企画ということらしく、母方の祖父母と母、そして私の4人で温泉旅館に泊まった、弟はというとサークルの用事か何かがあると言って一人でどこかへ出かけていった。私は日曜の昼過ぎに家族と別れてから、そのまま箱根をうろついているゼミの皆と合流することにした。

 これは当日の2、3日前に気付いたのだけど、ゼミの卒業旅行に私は参加しないことになっていた。私にしては珍しく参加する気満々だったにも関わらずである。念のために言っておくと、私はゼミの同期にいじめられているわけではない。正直な話とっつきにくいなとかあいつちょっと変なやつだなとかは思われているかもしれないけど、決してハブられているということはない。

 直前になっても旅行についての詳細が不明だったので幹事長に聞いてみたところ、そういった情報は全てゼミ全体のトークルームではなく卒業旅行に参加するメンバーのみのトークルームで共有されていたということが判明した。どうやら2、3ヶ月ほど前に「卒業旅行に参加したい人はこの投稿にいいねを押してください」という投稿が幹事長によってされていて、私はその投稿を見た覚えもあったのに、いいねを押していなかったばっかりに参加しないことになっており、卒業旅行についての情報が飛び交うグループにも招待されていなかったのである。なんてことだ。いいねを押さなかった私も悪いと思うけど、いいねを押すか押さないか、たったのワンタップで出欠を確定してしまうのはどうなのか、とも感じる。

 この件に限らず、飲み会の出欠やアルバムの注文なんかもLINEのトークで「いいねを押してください!」とか「希望者はこのトークルームに書き込んでおいて下さい(^^)」とか、お手軽といえばお手軽だけどなんとも馴れ合い的な手続きが主流になってきていて、そういう事務的な要件ぐらいキッチリ出欠とったらどうなんだ、と思うことが多い。うちに限らず最近の大学生というのはみんなそうなのだろうか。


 話が逸れたけど、とにかく私は直前になっていきなり卒業旅行への参加を表明して、しかも途中から合流することにして、最後はみんなより少し早めに東京に戻るという面倒極まりない予定になり、結果、ゼミの同期の何人かに多少の面倒をかけることになった。私にはゼミに特別仲の良い相手というのがいなかったので、合流するときにみんなが今どこにいるのか、何をしているのか、これからどこへ向かう予定でどこで合流すれば良いのか、そういった情報を一体誰とやりとりすればいいのかわからず、かと言ってグループ全員が見るトークルームにいちいち投稿してみんなのスマホをピロピロいわせるのも嫌だなと困っていたところ、近況や予定を連絡をしてくれた男子が一人いた。これは素直にありがたかった。彼はゼミの同期の中でもけっこうオタクな方で、Twitterのヘビーユーザーで、私と相互フォローでもあって、ゼミの中では最も話が合う相手である。
 彼に今みんながいる場所を教えてもらって大湧谷の駅で待ち合わせ、無事に合流することができた。私を見かけて「あっまにまにじゃーん!」と声をかけてくれた人もいた(私は前に使っていたアカウントをゼミで公開しており、同期のうちほとんどの人からハンドルネームで呼ばれてしまっている)。久しぶりに顔を合わせたこともあって女の子たちは私に色々と話を振ってくれて、ギリギリ卒業できそうだという話、卒論の話なんかをしたり、Instagramを見せ合って、美味しいごはん屋さんを教え合ったりした。ごはん屋さんの話でゼミの女の子たちといつになく盛り上がったので、食べ物の話は偉大だと思った。うまく納得のいく受け答えができたとは言えない部分もあったけど、そんなことは気にならないぐらいに、純粋に同期のみんなに受け入れられていることを嬉しく感じた。幹事長は私がいきなり旅行に参加すると言ったときにも快く調整してくれたし、ガラスの森美術館では同期の女の子と一緒に回って、恋愛相談?のようなものをされたり手を繋いだりもした。
 私のゼミは人数が多いこともあって、全体的にワイワイしたノリである。研究や勉学なんかはそっちのけでみんなで楽しくディスカッションしたりキャッチコピーを考えてみたり、ドライブでゼミの写真を共有したりすることに重点を置いている。私はそんなゼミのみんなと距離を置いていたところがあった。ゼミの同期は7割ぐらいが女子なのだけど、彼女たちは皆かわいくてキラキラしていて、声も明るくハイトーンで、リアクションがちょっと大げさで、メイクもちゃんとしていて、サークルやバイトもいろいろ充実していて、就職もいいところにきっちり決めて、いわゆる「リア充」側の人間で、自分はそれとは反対の「非リア」側の人間だと思っているところがあった。この認識は事実であるとしても、かなり偏った認識になっていて、その認識の偏りがさらに状況を悪化させることになったりもする、つまり自分は「非リア」であると思ってみんなとの距離を置くことで、余計に私は会話をギクシャクさせ孤立を極め、非リア道を突き進むような結果になってしまっているのかもしれなかった。「リア充」「非リア」という概念が生まれていない時代ならこんなことも起こらなかったのだろうかと思う。ただ主な原因は私の膨れ上がった自意識であることは明らかだった。

 変な受け答えになっていないか、服がダサいと思われていないか、ここで発言してキモイと思われやしないか、物心ついた頃から私はこうして自意識が過剰であることに苦しめられてきた。確かに実際私は変なところや人とズレているところが多いと自覚しているけど、世間の人々、特に都会の若い世代の人々はそうしたことに存外に寛容であるらしい。自分が思っているより他人は自分のことを気にしていないのだということ、これを頭で理解するのにそう長い時間はかからなかったけど、そこから実際に人の目を気にしすぎないようにするのに気の遠くなるような時間がかかるだろう、ヘタをすると一生直らないかもしれない(逆に意外と自分が気にしていなかったところを他人が気にしていることがあったりもして、そこが厄介である)。

 だから私はゼミのみんなからも距離を置かれていると勝手に思っていた。いや、みんなの態度から薄々そんなことはないのかもしれないと気付いてはいたけど、なんとなく認められなくて、というよりなんとなく受け入れたくなくて、卒業間近になってやっと落ち着いて同期の子たちと付き合えるようになったのだった。受け入れることに抵抗があったのは、みんなの中に混じって対等にコミュニケーションするよりは自分は他人と違うと思って距離を置いている現状を維持していた方が楽ではあるから、そして、自分が持っている「自分は人から忌み嫌われる存在である」という価値観を見直すのに時間がかかったからだ。もちろん過剰な自意識を差し引いても、距離を置かれているかも、あるいは嫌われているかも、と思う相手はいるけれど、だからと言ってみんながみんなそうではないのだ。

 私は自分とみんなとが違う世界に住んでいると思い込んでいて、私とみんなの間に溝のようなものがあると錯覚して、それでいて自分はみんなより少しばかり賢いという驕りを抱いていて、とにかく私は馬鹿だったなと思った。